山深き要塞に雅な京文化!多気北畠氏城館の歴史と名勝庭園の真実
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多気北畠氏の歴史を語る上で避けて通れないのが、第8代当主・北畠具教(とものり)と天下人・織田信長との凄絶な相克です。具教は公家でありながら、剣聖・塚原卜伝から奥義「一の太刀」を伝授された屈指の剣豪武将として知られていました。
永禄12年(1569年)、織田信長が数万の大軍を率いて伊勢へ侵攻(大河内城の戦い)。具教は大河内城に籠城し、信長軍の猛攻を50日以上にわたって耐え抜きます。信長も力攻めによる攻略を断念し、「信長の次男・茶筅丸(後の織田信雄)を具教の養子として迎え、家督を譲る」という条件で講和を結びました。
しかし、これは名門北畠氏を内側から乗っ取るための信長の罠でした。隠居して三瀬御所(現在の三重県大台町)に移った具教に対し、天正4年(1576年)、信長と信雄は刺客を差し向けます。これが世にいう「三瀬の変」です。不意を突かれた具教は、名刀を手に奮戦したものの刃こぼれによって命を落としたと伝えられています。同時に多気の霧山城と城館も信雄軍によって焼き払われ、240年近くにわたり南伊勢に君臨した名門北畠氏は滅亡の運命を辿りました。