池田大作の証人喚問はなぜ消えたのか?政界を揺るがした攻防の真相

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池田氏の証人喚問を巡る議論は、1995年に突如降って湧いたものではありません。歴史を遡れば、1969年から1970年にかけての「言論出版妨害事件」に最初の原点があります。政治評論家・藤原弘達氏の著書『創価学会を斬る』の出版を巡り、学会および公明党関係者が圧力をかけたとされる問題で、日本共産党や日本社会党が国会で池田氏の喚問を猛烈に求めました。この時は、池田氏が公の場で政教分離を明確に宣言し、公明党の組織的独立を打ち出すことで波を鎮めました。

そして25年後の1994年、非自民連立政権の崩壊とともに自民党内で結成されたのが、亀井静香氏や白川勝彦氏らを中心とする議員連盟「憲法20条を考える会」でした。さらに外部の宗教者や保守知識人を巻き込んだ「四月会」が結成され、機関紙や集会を通じて「創価学会による日本支配」「政教一致の違憲性」を連日糾弾しました。

亀井静香氏が池田氏の喚問要求の先鋒に立った動機は、極めて明確でした。当時、小沢一郎氏が率いる新進党は衆参両院で単独過半数を視野に入れており、その強固な地上戦力を担っていたのが公明系組織でした。亀井氏らは、池田氏を喚問の場に引きずり出すことで、「新進党=創価学会」というイメージを有権者に強烈に植え付け、都市部の無党派層を離反させる戦略を描いていたのです。

当時の村山首相や橋本龍太郎自民党総裁ら執行部は、連立相手である社会党への配慮や法案成立の優先度を天秤にかけながら、亀井氏らの強硬論を新進党への「最大の揺さぶり材料」として巧妙に利用していました。

中村 さくら

中村 さくら

マネー&キャリアエディター

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。

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