江戸時代の花火の歴史と真実|隅田川のルーツから玉屋追放の裏側まで
江戸時代の花火の歴史と真実|隅田川のルーツから玉屋追放の裏側までに関する専門家の意見を分かりやすく解説いたします。
江戸時代の花火に関して、現代のネット上では「江戸庶民は自由に庭先で花火を楽しんでいた」「玉屋は幕府の陰謀で潰された」といった俗説が見受けられますが、これらは史実と異なります。
盲点1:市中での花火は原則「厳罰対象」だった
木造家屋が密集する江戸の町において、火災は最大の脅威でした。幕府は慶安元年(1648年)以降、度重なる「花火禁止令」を発令しています。明暦の大火(1657年)を経た後、市街地での打ち上げはもちろん、町中でのねずみ花火やすすき花火の類いすら厳しく制限されました。唯一、火災リスクが極めて低く川面で延焼を防げる「隅田川の舟上・川端」だけが、例外的な特区として打ち上げを認められていたのです。
盲点2:玉屋の追放は「将軍の日光社参」直前の失火だった
玉屋が姿を消した経緯についても、単なる不祥事以上の重い背景があります。天保14年(1843年)4月17日、第12代将軍・徳川家慶が日光東照宮へ参拝する「日光社参」に出立するまさにその日の未明、玉屋の作業場から出火し、周囲の町屋を巻き込む大火災を引き起こしました。
当時の幕政下において、将軍出立の日に失火を起こすことは重罪中の重罪であり、玉屋市兵衛は「江戸払い(追放刑)」、家財没収の過料に処されました。創業からわずか33年、人気絶頂の中での突然の退場劇でした。しかし、その短い栄光が強烈な印象を残したからこそ、現代に至るまで「たまや」の名が掛け声として生き続けています。