「せきしてもひとり」なぜ生まれた?尾崎放哉の壮絶な生涯と孤独の真相
「せきしてもひとり」なぜ生まれた?尾崎放哉の壮絶な生涯と孤独の真相に関する疑問を詳しくまとめました。最新データをご確認ください。
「せきしてもひとり」なぜ生まれた?尾崎放哉の壮絶な生涯と孤独の真相について知っておくべき 事実を分かりやすい構成で解説いたします。
日本の近代文学において、自由律俳句の頂点として必ず並び称されるのが尾崎放哉と種田山頭火です。二人はともに荻原井泉水が主宰する俳誌『層雲』に拠り、エリートの出自から破滅し、酒に溺れて無一文となった共通点を持っています。しかし、その生き様と生み出した文学の質感は完全に対照的でした。
項目尾崎放哉(おざき ほうさい)種田山頭火(たねだ さんとうか)編集部の文学的考察生涯のスタイル定住・閉居型(小豆島南郷庵に籠もり自己を凝視)放浪・漂泊型(行乞しながら全国を歩き続ける)閉鎖空間に沈澱した放哉と、移動の風の中に身をさらした山頭火の対比。孤独の性質内向的・密閉された絶望(逃げ場のない自己嫌悪と対峙)外向的・自然一体型の孤独(歩くリズムと自然への溶解)放哉の孤独は「冷たく重い」。山頭火の孤独は「開かれていてどこかリリカル」。代表的な句・咳をしても一人
・墓のうらに廻る
・足のうら洗へば白し・分け入つても分け入つても青い山
・うしろすがたのしぐれてゆくか
・鉄鉢の中へも霰身体の細部や静止した空間を切り取る放哉に対し、山頭火は風景の運動性を詠む。死因と生涯の幕引き咽頭結核(1926年4月没、享年41)小豆島にて病死心臓麻痺・脳溢血(1940年10月没、享年58)松山・一草庵にて没放哉は若くして病魔に倒れたが、その濃密な絶望が句集『大空』に結実した。
山頭火自身、放哉に対して強い憧憬と嫉妬を抱いていました。山頭火は後に放哉の終焉の地である小豆島を訪れ、「庵を訪ねて放哉のあとを追うたが、自分は放哉のようにはなれない」とその徹底した諦念と凝縮された詩境に脱帽しています。放哉の生み出した自由律俳句 代表作群は、放浪というアクションに逃げることすら許されず、狭い庵の畳の上で自己の腐食を見つめ続けた者にしか到達できない極北の境地でした。