岩倉使節団は何をしたのか?条約改正の失敗と近代化の真実を解剖
岩倉使節団は何をしたのか?条約改正の失敗と近代化の真実を解剖についての真相を徹底解説します。
条約改正の失敗という痛烈な挫折は、逆説的に使節団の視察姿勢を研ぎ澄まさせました。使節団の書記官を務めた久米邦武は、使節団が見聞きした政治・経済・風俗・産業のすべてを精密なルポルタージュとして記録し、後に全100巻に及ぶ不朽の記録『米欧回覧実記』として編纂しました。
『米欧回覧実記』に記された視線は、単なる驚嘆にとどまりません。久米らはイギリスの繁栄の源泉が壮大な工場群と石炭の煙にあることを見抜き、同時に欧米の近代化が数百年におよぶ血みどろの試行錯誤と宗教改革の果てに成立したものであることを冷静に分析しています。久米は「欧米の富強はここ数十年で急速に進んだものに過ぎず、日本も今すぐ学んで実践すれば追いつくことは不可能ではない」と記し、後発国としての戦略的希望を見出していました。
この外遊が大久保利通と木戸孝允に与えた影響は、その後の日本の命運を決定づけました。
ロンドンの大英博物館やリバプールの港湾施設、製鉄所を視察した大久保利通は、自らの日記や知人への手記で「イギリスの繁栄に度肝を抜かれ、日本のあまりの遅れに絶望感を覚えた」と吐露しています。しかし大久保は絶望で終わらせず、帰国直後に内務省を創設。自ら初代内務卿(実質的な首相)に就任すると、官営富岡製糸場の設立や鉄道・通信網の整備、農業改良など、国家主導で産業を育てる「殖産興業」を一気に推し進めました。
一方の木戸孝允は、各国の統治体制を比較研究した結果、一刻も早く成文憲法を制定し、専制政治ではなく立憲主義に基づく国づくりを進めるべきだと確信しました。これが後の自由民権運動への対応や、伊藤博文を中心とする大日本帝国憲法草案の策定へと一本の線でつながっていきます。