東海村臨界事故なぜ起きた?バケツ作業の実態と壮絶な被曝治療の全貌
東海村臨界事故なぜ起きた?バケツ作業の実態と壮絶な被曝治療の全貌の重要なポイントについて、専門知識を詳しくお届けします。
事故直後、千葉市の放射線医学総合研究所から東京大学医学部附属病院へと転院した大内久さんの治療は、日本の先端医療チームを結集して行われました。後に書籍化され、NHKスペシャルでも詳細に報道されたドキュメンタリー『被曝治療83日間の記録』は、放射線が人体をいかに残酷に蝕むかを記録した貴重な医学資料となっています。
搬送当初の大内さんは、意識も明瞭で医師とも普通に会話を交わしていました。しかし、骨髄細胞の顕微鏡画像を見た医療チームは息を呑みます。23対あるはずの染色体が断裂し、ばらばらに破壊されていたのです。これは、新しい細胞を二度と作り出せないことを意味していました。
数日を経ずして白血球数はゼロ近くまで激減。妹からの末梢血幹細胞移植によって一時的に造血機能の回復が試みられたものの、放射線に侵された大内さんの体内では、移植された健康な細胞までもが破壊されていきました。続いて皮膚が再生を停止し、粘着テープを剥がすだけで表皮が剥がれ落ち、全身から体液と血液が滲み出しました。腸の粘膜が壊死して脱落し、激しい下血と激痛に襲われながらも、医療スタッフは懸命な処置を継続しました。
「俺はモルモットじゃない」――大内さんが治療の初期に絞り出すように発したこの言葉は、医療関係者の胸を強く締め付けました。心肺停止を繰り返しながらも生命維持装置で繋ぎ止められ、事故から83日後の1999年12月21日、多臓器不全により息を引き取りました。また、同僚の篠原理人さんも皮膚移植や臍帯血移植を受け、211日間にわたり闘病を続けましたが、2000年4月に帰らぬ人となりました。唯一の生存者となった横川豊さんは、長期の入院加療を経て退院したものの、精神的・肉体的な傷痕を背負い続けることとなりました。