北条時行の壮絶な史実と最期|『逃げ若』が描かぬ処刑と子孫の真相
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北条時行を理解する上で、すべての原点となるのが1333年(元弘3年/正慶2年)5月の鎌倉幕府滅亡です。鎌倉幕府第14代執権・北条高時の遺児である時行は、新田義貞の軍勢によって東勝寺で一族郎党800余人が自害した際、わずか数歳の幼長でした。親族を一夜にして失い、幕府の権威が瓦解する極限状況のなか、得宗家の血を引く若君を救い出したのが信濃国の神官・諏訪頼重でした。『保暦間記』などの記録によれば、時行は追っ手を逃れて信濃の諏訪大社へ匿われ、雌伏の時を過ごすことになります。
時行が日本史の表舞台へと鮮烈な返り咲きを果たしたのが、滅亡からわずか2年後の1335年(建武2年)に勃発した中先代の乱です。信濃の武士団を結集した時行軍は、建武の新政に対する武士層の不満を吸収しながら怒涛の勢いで北上。武蔵国で足利尊氏の弟・直義の軍勢を連破し、瞬く間に旧領・鎌倉の奪還を成し遂げました。
先代(北条氏)と後代(足利氏)の間の一時的な支配者であったことから名付けられた「中先代」の呼称ですが、当時まだ10歳前後の少年が率いた軍勢が、新政権の要所を急襲した衝撃は計り知れません。直義は鎌倉敗走の際、幽閉中だった護良親王を殺害して逃亡。この時行の蜂起こそが、足利尊氏の建武政権離反の直接的な引き金となり、日本中を巻き込む南北朝の動乱の火蓋を切ったのです。