なぜ大名は改易に怯えたのか?武家諸法度の真相と参勤交代の支配構造
なぜ大名は改易に怯えたのか?武家諸法度の真相と参勤交代の支配構造について押さえておきたい 注意点を分かりやすく解説いたします。
武家諸法度は一度作られて終わりではなく、将軍の代替わりごとに改定され、時代の要請に応じてその性質を大きく変貌させていきました。武家諸法度 徳川家康が側近の臨済宗僧侶・金地院崇伝に起草を命じ、第2代将軍・武家諸法度 徳川秀忠の名で発布された全13条の「元和令」がその原点です。この時期の目的は、血気盛んな戦国武将たちの武力を封じ込める軍事警察的な統制にありました。
劇的な転換点を迎えたのが、寛永12年(1635年)、第3代将軍・武家諸法度 徳川家光によって発布された全19条の武家諸法度 寛永令です。ここで新たに盛り込まれたのが、大名統制の決定打となる「参勤交代の制度化」と、外洋航行が可能な500石積以上の大船建造禁止でした。幕府の軍事的優位が確立したことを受け、統制の網は大名の財政と外洋進出の遮断へと広がっていきます。
その後、第5代将軍・徳川綱吉の代である天和3年(1683年)に出された武家諸法度 天和令では、法度の第一条がそれまでの「文武弓馬の道」から「文武忠孝を励まし、礼儀を正すべき事」へと改められました。もはや武力で天下をねじ伏せる時代は終わり、儒教的な道徳観で秩序を治める文治政治への完全なシフトを告げる改定となったのです。