工藤公康の若い頃がアイドル級?阿須加との激似比較と西武黄金期伝説
工藤公康の若い頃がアイドル級?阿須加との激似比較と西武黄金期伝説とは一体何なのか? 主要なファクトを整理してお届けします。
工藤公康氏の全国区の伝説は、愛知県の名古屋電気高校(現・愛工大名電高校)時代に幕を開けました。1981年夏の第63回全国高校野球選手権大会において、左腕エースとしてチームを牽引。2回戦の長崎西高校戦では、甲子園史上22人目、実に8年ぶりとなるノーヒットノーランを達成する快挙を成し遂げました。落差のあるカーブと伸びのある直球で三振の山を築き、同校をベスト4へと導いた姿は、高校野球ファンの記憶に鮮烈に焼き付いています。
しかし、その後のプロ入りを巡るドラマは、球界史に残る大波乱となりました。実家の家計状況や父親の強い意向もあり、社会人野球の強豪・熊谷組への就職が内定。「プロには行かない」と公言していたため、同年のドラフト会議では全球団が指名を回避すると見られていました。
その沈黙を破ったのが、当時「球界の寝業師」の異名をとった西武ライオンズの管理部長・根本陸夫氏でした。なんとドラフト6位で強行指名に踏み切ったのです。他球団のスカウト陣が騒然とする中、根本氏は執念深く本人や家族、学校関係者のもとへ通い詰め、誠心誠意の説得を重ねました。結果として入団合意を取り付け、のちの大投手が誕生することになったこの指名劇は、今なおプロ野球ドラフト史における最大の奇襲作戦として語り草となっています。