新撰組・山南敬助の本物写真は実在する?古写真の真相と切腹の謎

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山南敬助という人物を語る上で避けて通れないのが、新選組の「総長」というトップクラスの重職にありながら、なぜ禁忌とされた隊の脱走を図り、切腹へと至ったのかという疑問です。

新撰組における山南敬助の経歴を振り返ると、彼は陸奥国仙台藩出身(諸説あり)とされ、江戸の小野派一刀流や北辰一刀流の道場で腕を磨いた屈指の剣客でした。天然理心流の試衛館道場主・近藤勇と手合わせしたことをきっかけに近藤の器量に惚れ込み、試衛館の門人たちと行動を共にします。文久3年(1863年)の浪士組結成時には近藤、土方らと共に上洛。芹沢鴨一派の粛清を経て新選組が結成されると、近藤を支える筆頭格として「総長」に就任しました。文武両道に秀で、隊内の調整役として信望を集めていたことは当時の記録からも明らかです。

しかし、池田屋事件(1864年)の前後から、組織内での山南の立ち位置は急速に孤立していきます。最大の引き金となったのは、土方歳三との不仲や指導理念をめぐる対立でした。近藤・土方が目指した「幕府権力と結びついた冷徹な軍事集団への脱皮」に対し、尊王攘夷の理想を抱き教養人でもあった山南は、隊の急進的な武力行使や強圧的な支配体制に強い懸念を抱いていました。

さらに決定打となったのが、新選組屯所の「西本願寺への移転問題」です。過激化する隊士の統制と軍備拡大を図る土方らは、広大な西本願寺を接収する形で本拠地を移す計画を推進しました。しかし、長州藩との繋がりが深く門徒の多い本願寺を威圧的に利用することに対し、山南は強く反対の意を表明。意見が容れられず孤立した山南は、元治2年(1865年)2月、突如として書き置きを残し、行方をくらましました。

山南が向かったのは、江戸ではなく近江国大津(現在の滋賀県大津市)でした。追手として差し向けられた沖田総司にすぐさま発見された際、山南は逃亡を図ることも抵抗することもなく、静かに連れ戻されることを受け入れたと伝えられています。この行動から、山南の脱走は自己保身のための逃避行ではなく、自らの命を賭して組織の暴走に異を唱えた「抗議の脱退」であったとする見方が、多くの歴史研究者の間で有力視されています。

前田 葵

前田 葵

サステナビリティ研究家

マーケティングと消費者心理のトレンドを分析し、現代のヒット商品の背景を読み解きます。

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