徳川綱吉の生類憐れみの令はなぜ天下の悪法から名君の福祉政策へ大逆転したのか
話題沸騰中の 徳川綱吉の生類憐れみの令はなぜ天下の悪法から名君の福祉政策へ大逆転したのかについて、多角的な視点をご紹介しています。
なぜ、これほど人道的な政策を推し進めた綱吉が、後世において「暗君」「天下の悪法」と酷評されることになったのでしょうか。そこには政権交代に伴う激しい政治的プロパガンダが存在しました。
綱吉が宝永6年(1709年)に死去すると、第6代将軍・徳川家宣のブレーンとなった学者・新井白石(あらいはくせき)が主導する「正徳の治」が始まります。新井白石らは前政権の政策を全面的に否定し、自らの正統性をアピールするために綱吉時代の施策を過剰に批判しました。白石の著書『折たく柴の記』などで綱吉の治世が誇張混じりに記されたことが、後世の歴史観を決定づけたのです。
また、武士階級にとって「命を慈しむ」という儒教的倫理の強制は、特権階級としての誇りであった「無礼討ち」や「武力による威嚇」を奪われることを意味していました。既得権益を制限された武士層の不満が、落書や講談を通じて庶民に広がり、「犬公方」という蔑称とともに悪評が一人歩きしていったのが真相です。
綱吉の死後、過度な事務手続きを強いていた「犬の戸籍管理」や「中野の犬小屋」は即座に廃止されました。しかし、「捨て子の禁止」「行き倒れ人の救護義務」「牛馬の遺棄防止」といった根幹の人道規定は、吉宗の享保の改革以降も幕府の基本法制として幕末まで継承されました。