五箇条の御誓文の真実!目的と現代語訳・五榜の掲示との違いを徹底解説
五箇条の御誓文の真実!目的と現代語訳・五榜の掲示との違いを徹底解説の要点を詳しく解説してご紹介します。
五箇条の御誓文は、最初から完成された形で世に出たわけではありません。福井藩士、土佐藩士、長州藩士という異なる思惑を持った3人のキーパーソンが推敲を重ね、政治的妥協と理想の統合を繰り返した末に誕生しました。
最初の原案を執筆したのは、越前福井藩の財政再建で実績を上げ、坂本龍馬とも深い親交のあった由利公正(三岡八郎)です。由利が提示した「議事之体大意」は、龍馬の「船中八策」の息吹を感じさせるものであり、「庶民初メテ志ヲ遂ケ」といった民間の経済活動の自由や、士気向上のための合議制を強調する先見的な内容でした。
この原案に修正を加えたのが、土佐藩の福岡孝弟です。福岡は由利の原案を高く評価しつつも、封建领主である大名層の警戒を解くため、表現を武士・貴族層向けに手直ししました。「議事会を興し」という文言を「列侯会議を興し」と改め、各大名による合議機関(列侯会議)を中核に据える方向へ引き戻したのです。
この膠着状態を打破し、歴史に残る名文へと昇華させたのが、長州藩の指導者であった木戸孝允でした。木戸は福岡案を熟読した上で、「列侯会議」という限定的な表現を厳しく批判しました。大名だけの会議に限定しては旧来の封建体制と何ら変わらず、激動の世界情勢を乗り切る強力な中央集権国家を創れないと見抜いていたからです。木戸は文言を「廣く會議を興し」と普遍的な表現へ差し戻し、さらに国民の一体感を高める文言を盛り込みました。加えて、福岡が意図していた「諸侯への布告」という形式を退け、天皇自らが神々に誓う「御誓文」の儀式に仕立て上げるアイデアを打ち出しました。