大化の改新の語呂合わせに異変?乙巳の変との違いと最新教科書の真実

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事件の核心を理解するには、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)が手を組んだ経緯と、当時の緊迫した東アジア情勢に目を向ける必要があります。当時、巨大帝国・唐が勢力を拡大し、朝鮮半島の高句麗や百済へ圧力を強めていました。日本が独立を保つためには、豪族が私有地や私民を抱える旧来の分権的体制を解体し、天皇を中心とする強力な中央集権国家を打ち立てることが急務でした。

当時、朝廷で絶大な権力を握っていたのが蘇我蝦夷・蘇我入鹿の親子です。自邸を「宮門(みかど)」と呼ばせ、紫の冠を私的に授与するなど、王権を凌駕する振る舞いが目立っていました。危機感を募らせた中大兄皇子と中臣鎌足は、法興寺の蹴鞠(けまり)の会で偶然を装って接近。唐の最新知識を持つ南淵請安の私塾に通う道中で、国家改革の密計を練り上げたと『日本書紀』は伝えています。

そして645年6月12日、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)において三韓(朝鮮半島諸国)からの使者を迎える儀式の最中、蘇我入鹿は中大兄皇子らの手によって討伐されました。これが乙巳の変です。父の蝦夷も翌日に自害し、蘇我氏の本宗家は滅亡。皇極天皇は退位し、新たに即位した孝徳天皇のもと、政治の拠点を飛鳥から大阪湾に面した難波長柄豊碕宮(難波宮)へと遷都しました。ここから打ち出された施策群こそが、真の意味での大化の改新となります。

小林 直樹

小林 直樹

トレンドリサーチャー

シンプルで洗練された住まいづくりとインテリアコーディネートのアイデアを提案しています。

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