清少納言の性格は本当に悪かった?紫式部が酷評した「したり顔」の真相
清少納言の性格は本当に悪かった?紫式部が酷評した「したり顔」の真相に関する主要な事実を分かりやすくまとめました。詳細な解説をご覧ください。
清少納言が「性格が悪い」と誤解される最大の要因は、紫式部が書き残した『紫式部日記』のあまりにも有名な一節にあります。千年の時を超えて語り継がれるその辛口な記述を、まずは現代語訳とともに確認してみましょう。
【原文抜粋】
「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。(中略)そのあだになりぬる人の果て、いかでかよく侍らむ」
【現代語訳】
「清少納言ときたら、得意気な顔をしてひどく偉そうにしていた人です。あれほど利口ぶって漢字を書き散らしていますが、よく見てみればまだまだ知識不足な点が多くあります。(中略)そうした浮薄な振る舞いが身についてしまった人の末路が、どうして良いものになるでしょうか、いや良くないはずです」
驚くほどの辛辣さですが、ここで知っておくべき歴史的背景があります。実は清少納言と紫式部は宮中で直接対面した記録がほぼありません。清少納言が仕えた中宮・藤原定子が長保2(1000)年に亡くなり宮廷を去った後、寛弘3(1006)年頃に藤原彰子へ仕え始めたのが紫式部です。
つまり、紫式部が目にしたのは宮中に残っていた『枕草子』の写本や、当時すでに伝説化していた「機知に富む清少納言の武勇伝」でした。内向的で思索を好む紫式部から見れば、教養を武器に男性貴族と対等に渡り合い、得意満面に振る舞っているように見える清少納言のスタイルは、受け入れがたい「軽薄な自己顕示」に映ったのです。ライバル関係というよりは、「後から入社した真面目なエリート後輩が、社内で語り継がれる型破りな名物OGの噂を聞いて苛立っていた」構図に近いと言えます。