池田恒興の真相|信長の乳兄弟はなぜ小牧長久手で散り子孫は繁栄したか
池田恒興の真相|信長の乳兄弟はなぜ小牧長久手で散り子孫は繁栄したかに関する専門家の意見を詳しく解説いたします。
池田恒興の生涯を語るうえで、まず押さえるべきは主君・織田信長との並外れた心理的・肉体的距離の近さです。恒興の母・養徳院は信長の乳母を務めており、恒興自身は信長と文字通りの乳兄弟として同じ屋根の下で幼少期を過ごしました。信長がまだ「尾張の大うつけ」と周囲から揶揄されていた少年時代から小姓として側近くに仕え、信長の身辺警護や初陣を支え続けた最古参の側近でした。
青年期以降の恒興は、信長の主要な合戦のほぼすべてに従軍しています。1560年の桶狭間の戦い、1570年の姉川の戦いを経て、武名をとどろかせたのが1580年の荒木村重討伐戦です。難攻不落とされた花隈城を奇襲によって攻略し、荒木軍を壊滅に追い込んだ功績により、信長から摂津国の大半(兵庫城主、のち大坂方面の拠点領有)を与えられました。これは恒興が単なる側近ではなく、独立した大軍を指揮できる実力派武将として認められた瞬間でした。
1582年に本能寺の変が勃発すると、恒興の政治的判断力が試されることになります。明智光秀からの誘いを退けた恒興は、中国大返しを敢行した羽柴秀吉の軍勢に合流し、山崎の戦いで右翼の先鋒を務めて光秀軍を撃破。この武功によって、信長亡き後の織田家の後継と遺領配分を決める清洲会議において柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉と並ぶ「宿老四人衆」の一席を獲得しました。その後、美濃13万石の大垣城主へと加増転封され、濃尾平野の要衝を抑える大大名へと一気に躍進を遂げたのです。