ドイツフランス戦争の真相|ビスマルクの罠と世界史を揺るがした激突
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19世紀中盤、ヨーロッパ中東部ではプロイセン王国を中心とするドイツ統一運動が急速に進展していました。普墺戦争(1866年)でオーストリアを排除したプロイセンの宰相ビスマルクにとって、残された課題はバイエルンなど南ドイツ諸邦を統合し、真の「統一ドイツ帝国」を樹立することでした。しかし、強大な隣国フランスは自国の東側国境に統一国家が誕生することを断固として阻止しようとしていました。
そこでビスマルクは、「フランスという共通の脅威を前に団結させる」という心理的アプローチを企図します。対仏開戦を望みながらも、プロイセンから先制攻撃を仕掛ければ国際世論の支持を失い、南ドイツ諸邦の連帯も得られません。ビスマルクに必要だったのは、「フランス側から宣戦布告をさせること」でした。
契機となったのは、1868年に起きたスペインの王位継承問題です。スペイン議会がプロイセン国王ヴィルヘルム1世の同族であるホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家のレオポルト公に国王就任を要請したことで、東西を親プロイセン勢力に挟まれる危機感を抱いたフランスは猛反発しました。ヴィルヘルム1世はいったんレオポルトの候補辞退を容認し、平和的妥協を図ろうとします。
しかし、外交的優位を確定させようとしたフランスの外相グラモン公爵は、駐プロイセン大使ベネデッティを療養地バート・エムスに派遣。「将来にわたっても二度とスペイン王位にプロイセン王家が就かないこと」を永久保証するようヴィルヘルム1世に執拗に迫りました。国王はこの要求を非礼として丁重に拒絶し、その経過をベルリンのビスマルクへ電報で報告します。
この報告を受け取ったビスマルクの行動は迅速かつ冷徹でした。自著・回顧録『思考と回想』において本人が克明に振り返っている通り、ビスマルクは電報の文脈を意図的に切り詰め、「フランス大使が国王に過度な要求を突きつけ、激怒した国王が大使との引見を冷淡に拒否した」かのように読める文章へと編集しました。この修正電報を各国の通信社や新聞各紙に意図的にリークしたのが、歴史上名高い「エムス電報事件」です。
フランスの祝日であった1870年7月14日、この報道に接したパリの市民と議会は激昂しました。「プロイセンに名誉を侮辱された」と沸騰した世論に押し切られる形で、フランス政府は冷静な外交調査を行わないまま、7月19日にプロイセンへの宣戦布告に踏み切ったのです。完全にプロイセンの手のひらの上で踊らされた結果でした。