奈良ドリームランド跡地の現在と閉園の深層|解体後と再開発の全貌
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奈良ドリームランドの誕生には、昭和の興行界に君臨した傑物・松尾国三の強烈な執念が刻まれています。千日デパートや歌舞伎興行を手がけ「興行界の怪物」と呼ばれた松尾は、1950年代後半に渡米した際、カリフォルニア州アナハイムに開園したばかりのディズニーランドを目の当たりにし、雷に打たれたような衝撃を受けました。 「この夢の国を、日本の古都・奈良に再現したい」――松尾はウォルト・ディズニー本人と直接会談を取り付け、日本招致に向けた交渉に乗り出します。初期段階では友好的な関係が築かれ、ディズニー側からも技術者や建築家が派遣され、パークの基本設計や図面、演出ノウハウの共有が進められました。 しかし、開業が目前に迫った段階で、奈良ドリームランドとディズニーの提携交渉は決定的な破滅を迎えます。決裂の主な原因となったのは、以下の2点でした。 * 高額なライセンス料とロイヤリティ:ウォルト・ディズニー・プロダクションズが求めたキャラクター使用料や売上連動ロイヤリティの条件が、当時の日本の興行慣行からかけ離れて高額であったこと。 * 経営主導権と品質管理の対立:ディズニー側が求めた徹底した運営管理マニュアルと排他的な統制に対し、自前の興行哲学を持つ松尾国三が「自分たちのパーク」としての裁量を頑なに譲らなかったこと。 交渉は物別れに終わり、ディズニーの正式なフランチャイズパークとしての道は断たれました。しかし、すでに建設準備が極限まで進んでいたことから、松尾は提携なしでの単独オープンを決断します。 1961年7月、こうして開園した園内には、眠れる森の美女の城を彷彿とさせる「メイン城」や、アメリカの街並みを模した「メインストリート」が並び、外観は本家ディズニーランドと酷似したものとなりました。この奈良ドリームランドの歴史と経緯は、著作権意識が未成熟だった昭和初期の日本のエネルギーと、海外文化の受容における軋轢を象徴する出来事として語り継がれています。 その後、独自のアイデンティティを確立すべく導入されたのが、1998年登場の木製コースターASKAでした。アメリカの名門インタミン社が手がけたこのコースターは、総工費約25億円を投じた圧巻の木組み構造を誇り、滑走時の猛烈な軋み音と浮遊感から「世界屈指のウッドコースター」として海外のコースター愛好家からも伝説的な名機と称賛されました。