橘逸勢の真筆か?伊都内親王願文の真相と躍動する書風・現代語訳を解剖
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『伊都内親王願文』が作成されたのは、平安初期の天長10(833)年9月21日のことです。この年は、嵯峨上皇の意向を受けて淳和天皇が甥の仁明天皇へと譲位した激動の変革期にあたります。願主である伊都内親王は、平安京を開いた第50代・桓武天皇の皇女であり、母は藤原平子(藤原種継の娘)という、皇室と藤原氏中枢の血を引く極めて高貴な身分にありました。史料によれば、彼女は大宝律令施行(701年)以後において公式に内親王を称した高貴な皇族女性のひとりです。
この古筆の基本形態は、縦約30センチ、長さ約3メートルに及ぶ上質な白麻紙(はくまし)1巻で構成されています。親王が藤原氏の氏寺である山階寺(現・興福寺)の東院西堂に対し、香灯読経料として莫大な田園資財を寄進する旨を記した公的な願文です。しかし、この一巻が他の古文書と決定的に異なるのは、巻頭から紙面の上部に幾重にもわたって押捺された伊都内親王本人の「朱の手形(手印)」の存在にあります。
なぜ皇女は、自らの身体の一部である手のひらを朱墨に浸し、公的な寄進状に捺印したのでしょうか。古文書学・仏教史の研究者によると、これは単なる身分証明(サイン)の域を超えた行為でした。古代から中世への過渡期において、手形は「我が身を賭けて誓いを違えない」という絶対的誓約の証言であり、同時に一族の怨霊や政争の災厄から寄進地を守護するための呪術的結界でもありました。桓武天皇の死後、皇位継承をめぐる血みどろの暗闘(薬子の変など)を間近で生き抜いてきた伊都内親王にとって、父母の菩提を弔い、自らの来世を祈る行為は、まさに命懸けの精神的事業だったのです。