平山郁夫の死因と最期の真相|被爆後遺症と闘い抜いた巨匠の軌跡

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平山郁夫の生涯と芸術を語る上で、決して切り離せないのが1945年8月6日の広島原爆被爆体験です。当時、旧制広島修道中学校3年生(15歳)だった平山郁夫は、学徒動員先の広島陸軍兵器補給廠で被爆しました。爆心地から約4.5キロメートル離れていたものの、強烈な熱線と爆風、そして立ち上る巨大なキノコ雲を目撃し、自身も瓦礫の下敷きとなり九死に一生を得ました。

戦後、東京美術学校(現・東京藝術大学)に進学して日本画を学びますが、20代半ばを過ぎた頃から放射線被爆による深刻な後遺症が身体を蝕み始めます。自著の手記やインタビューでも明かされている通り、平山郁夫の白血球数は健常者の半分近く(約3,000個前後)まで激減し、全身の激しい倦怠感、発熱、歯茎からの出血といった「原爆症」特有の症状に襲われ続けました。

医師から「白血球の数値がこれ以上下がれば命が危ない」と宣告され、自らの死期が近いことを直感した29歳の時、「死ぬ前に1作だけでも自らの生きた証を残したい」という悲痛な覚悟で描き上げたのが、初期の金字塔である『仏教伝来』(1959年)です。三蔵法師・玄奘三蔵が苦難の果てにインドから仏教を持ち帰る姿を描いたこの作品は、日本美術院展(院展)で高い評価を受け、画家・平山郁夫の実質的な再出発点となりました。

小林 直樹

小林 直樹

トレンドリサーチャー

シンプルで洗練された住まいづくりとインテリアコーディネートのアイデアを提案しています。

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