徳川慶喜は大坂城からなぜ敵前逃亡した?大政奉還の裏と子孫の今
徳川慶喜は大坂城からなぜ敵前逃亡した?大政奉還の裏と子孫の今の詳細について、専門知識を基に徹底解説します。
明治維新が成立し、新政府によって徳川宗家は田安徳川家の亀之助(後の徳川家達)が継ぎ、駿府(静岡藩70万石)へ移封されました。慶喜自身は1869年(明治2年)に謹慎を解かれましたが、東京へ戻ることなく、そのまま静岡の屋敷で30年におよぶ長い隠遁生活に入ります。
この静岡時代、慶喜は政治に関する発言を一切封印しました。面会に来る旧幕臣が政治の不満を口にしようものなら、即座に話を遮って追い返したと記録されています。新政府からの警戒を解き、幼い当主・家達が率いる徳川宗家に余計な嫌疑がかからないよう、自らを「政治的に死んだ人間」として演出したのです。
その代わりに慶喜が情熱を注ぎ込んだのが、多岐にわたるハイカラな趣味の世界でした。
- 写真撮影:当時の最先端機材を取り寄せ、自ら暗室で現像までこなす本格派。雑誌『華族』の表紙に慶喜撮影の写真が採用された実績もあります。
- 狩猟・釣り:静岡の山野を鉄砲を担いで駆け回り、獲物を追う日々を過ごしました。
- 自転車・油絵・囲碁・能楽:新しい西洋文化に強い関心を示し、当時まだ珍しかった自転車を乗り回して街の人々を驚かせました。
- グルメ生活:豚肉やパン、そして大政奉還前後に愛飲していたとされる深煎りのコーヒーを晩年まで嗜んでいました。
1897年(明治30年)、60歳になった慶喜は東京の巣鴨へ転居。翌年には皇居で明治天皇と皇后に拝謁を果たし、完全に「朝敵」の汚名を雪ぎました。1902年(明治35年)には特旨により公爵に叙爵され、宗家とは別に「徳川慶喜家」を創設。貴族院議員として国政にも参画しました。
そして1913年(大正2年)11月22日、慶喜は東京・小日向第六天町の邸宅にて息を引き取りました。享年76(満77歳没)。死因は風邪をこじらせたことによる急性肺炎でした。歴代将軍の中で最長寿を誇り、大正時代まで生き抜いた唯一の将軍でした。遺言により、歴代将軍が眠る徳川家の菩提寺(寛永寺や増上寺)ではなく、水戸徳川家の作法に則った神道形式(神葬祭)で谷中霊園に埋葬されたことも、水戸の誇りを最後まで捨てなかった彼の信念を物語っています。