坂下門外の変の真相とは?桜田門外との違いと幕府失墜の分岐点
坂下門外の変の真相とは?桜田門外との違いと幕府失墜の分岐点の基礎知識と応用に迫る! わかりやすい言葉で紐解きます。
坂下門外の変が引き起こした真の激震は、個人の名誉失墜にとどまりませんでした。幕府という統治機構そのものが抱えていた「防衛能力の欠如」を公衆の面前で白日の下に晒した点にあります。
桜田門外の変を受け、幕府は各大名の登城警護や江戸市中の治安維持体制を厳重に強化していたはずでした。にもかかわらず、わずか2年足らずの間に、今度は城の防衛ラインの最深部に近い坂下門の目の前で、わずか6人の浪士に老中が白昼襲撃される事態を許してしまったのです。
この失態は、諸藩の大名たちに「もはや徳川幕府には自らの最高幹部を守る力すら残っていない」という決定的な絶望感を植え付けました。事件後、負傷を理由に出仕を控えていた安藤信正に対し、大奥や幕閣内部からも退陣を迫る声が噴出します。結局、事件から約3ヶ月後の文久2年4月、安藤は老中を罷免され、所領を削られた上で強制隠居に追い込まれました。
安藤の失脚によって幕府主導の公武合体路線は瓦解し、政治の主導権は江戸城から京都へと完全に移行しました。薩摩藩の島津久光が兵を率いて上洛し、朝廷の命を奉じて幕政改革を迫る「文久の改革」へと突き進む契機となったのです。