全国3万から現存12へ!日本の城の数激減の真相と最新データ徹底解剖
全国3万から現存12へ!日本の城の数激減の真相と最新データ徹底解剖にまつわる最新トピックを分かりやすく発信ます。
「かつて日本列島には数万の城があった」と聞くと、多くの人は織田信長の安土城や豊臣秀吉の大坂城のような壮麗な天守が林立していた光景を思い浮かべがちです。しかし、城郭考古学が明らかにした日本の城全盛期の数の実態は大きく異なります。
戦国時代に築かれた城郭の大半は、土を掘削して空堀を作り、削り出した土で土塁を盛った防御施設である「土の城(中世城郭・山城)」でした。土豪や地侍が自らの勢力圏を守るため、全国の山々や要衝に砦や館を築いた結果、全国の城跡総数は3万〜5万箇所に達したと文化財関係者の悉皆調査で推計されています。
この膨大な軍事拠点がわずか十数城にまで淘汰された背景には、日本の城減少の真相と呼ぶべき3つの決定的な歴史的転換点が存在します。
第1の転換点は、慶長20年(1615年)に江戸幕府が発令した一国一城令の影響です。豊臣氏を滅亡させた直後、徳川家康と2代将軍・秀忠は、諸大名が領内に構える城を「大名が居住する本城1カ所」のみに制限し、それ以外の支城をすべて破却するよう命じました。これにより、わずか数カ月の間に数千もの出城や要塞が石垣を崩され、堀を埋め戻されて姿を消しました。徳川政権による徹底した中央集権化と軍備制限が、城郭の最初の大量絶滅を引き起こしたのです。
第2の転換点は、明治6年(1873年)に発された廃城令の理由と経緯です。正式名称を「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」と呼ぶこの太政官達により、全国の近世城郭は陸軍省が軍用地として使用する「存城」と、大蔵省に引き渡されて競売・解体される「廃城」に峻別されました。明治維新に伴う近代化の中で、城郭は前時代の封建遺構と見なされ、巨額の維持管理費を捻出できない地方自治体や財政難の政府によって、木材や瓦の売却益目当てに解体された事例が続出しました。
そして第3の決定打となったのが、昭和20年(1945年)の太平洋戦争末期における米軍の無差別都市爆撃です。明治の廃城令を奇跡的に生き延び、旧国宝に指定されていた名古屋城、岡山城、広島城、福山城、和歌山城、水戸城、大垣城、仙台城大手門などが相次いで灰燼に帰しました。これら3度の壊滅的打撃をくぐり抜けた結果として残されたのが、現在私たちが目にする「現存12天守」という極小の遺産群です。