徳川家重は暗君か名君か?言語障害を越えて田沼意次を見抜いた真実
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家重の治政を語る上で欠かせない最大の立役者が、側近の大岡忠光(大岡越前守忠相と同族)です。家重が発する不明瞭な言葉のニュアンスを唯一正確に聞き分けることができた忠光は、御側御用取次として将軍の意志を老中たちへ正確に伝達する役割を担いました。
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一部の記録では「忠光が将軍を操り人形にしていた」と悪意を持って書かれています。しかし、幕府の日記や忠光自身の行動記録を照合すると、忠光は決して私利私欲に走ることなく、家重の裁可を忠実に老中会議へ届けるパイプ役に徹していました。家重の性格は極めて緻密であり、老中から上がってきた上申書に誤謬があれば即座に却下する厳格さを持っていたことが確認されています。
そして、家重最大の功績とも呼べるのが、若き日の田沼意次の才能を見抜いたことです。吉宗の小姓からスタートした足軽上がりの家系にすぎなかった意次を、家重はその行政手腕と財政センスに目を留めて側衆へと大抜擢しました。
家重は1760年に長男の家治へ将軍職を譲り、翌1761年に没する直前、家治に対して「田沼意次を重用し、幕政を補佐させよ」と遺言を残しています。この遺言がなければ、後の重商主義による幕府財政の劇的な好転や「田沼時代」の文化隆盛は存在しませんでした。人を見る目において、家重は父・吉宗に勝るとも劣らない慧眼を持っていたのです。