伊東甲子太郎が暗殺された本当の理由|油小路事件の真相と近藤勇の罠
伊東甲子太郎が暗殺された本当の理由|油小路事件の真相と近藤勇の罠にまつわる役立つ知識を詳しく紐解きます。
新選組の参謀として活躍しながら、一体なぜ伊東甲子太郎は離脱し暗殺されたのか。その答えは、彼の生い立ちと経歴と人物像、そして入隊当初から抱いていた揺るぎない政治思想にあります。天保6年(1835年)、常陸国志筑藩の元家老・鈴木専右衛門の長男として生まれた伊東は、水戸藩の学者・金子健四郎のもとで水戸学を学び、強烈な尊王攘夷思想を身につけました。その後、江戸深川佐賀町の北辰一刀流・伊東精一道場に入門して免許皆伝を極め、師の娘婿となって道場を継承します。
転機が訪れたのは元治元年(1864年)10月のことです。同門の藤堂平助の仲介により、江戸へ隊士募集に訪れていた近藤勇と対面しました。当時の新選組は池田屋事件で名を上げたものの、朝廷や諸藩との外交交渉を担える知識人を切実に求めていました。近藤は伊東の圧倒的な弁舌と学識に惚れ込み、「道場を畳んで上洛してほしい」と礼を尽くして懇願します。これに対し、伊東は実弟の鈴木三樹三郎や門下生ら計7名を率いて新選組へ合流しました。
しかし、この入隊には最初から「同床異夢」の構造が潜んでいました。近藤勇と土方歳三が「徳川幕府への絶対的な忠誠(佐幕開国・佐幕攘夷)」を組織の根幹に据えていたのに対し、伊東の目的は「新選組という武力組織を内部から尊王攘夷派へ染め上げ、勤王の先鋒へと転換させること」だったのです。実際、御陵衛士の生き残りである篠原泰之進が記した一次史料『秦林親日記』には、伊東が当初から新選組を朝廷側の戦力として活用する構想を持っていた事実が克明に記録されています。
慶応2年(1866年)に薩長同盟が結ばれ、幕府の権威が急速に失墜していくなかで、両者の亀裂は修復不可能なレベルに達しました。伊東は孝明天皇の崩御を機に、朝廷の公家・三条実美や薩摩藩の吉井友実らに働きかけ、慶応3年(1867年)3月10日に「孝明天皇の御陵(みささぎ)を守護する」という勅命を得て、藤堂平助や鈴木三樹三郎、斎藤一(新選組の密偵として潜入)を含む計15名で新選組を合法的に離脱し、御陵衛士を結成します。局中法度によって「脱走=切腹」を絶対の掟としていた新選組にとって、朝廷の権威を盾に堂々と分派独立を果たした伊東の行動は、組織の統制を根底から揺るがす最大の脅威となりました。
さらに同年11月、伊東が薩摩藩の援助を受けながら「近藤勇および新選組幹部の排除計画」や、大政奉還後の新政府構想(公議政体論)を推し進めているという情報が、間者として潜り込んでいた斎藤一によって近藤のもとへもたらされます。この機密漏洩と幕末政局の緊迫化こそが、近藤と土方に暗殺の理由を与えた決定的な引き金でした。