ひめゆり学徒隊の悲劇はなぜ起きたのか?解散命令の真相と証言を徹底解説
ひめゆり学徒隊の悲劇はなぜ起きたのか?解散命令の真相と証言を徹底解説の基礎知識と応用に迫る! わかりやすい言葉で紐解きます。
米軍の圧倒的な物量作戦の前に日本軍の防衛線は崩壊し、陸軍病院は南風原から本島最南端の摩文仁(まぶに)周辺の地下壕へと退却を余儀なくされました。そして運命の1945年6月18日深夜、軍から突然告げられたのが「学徒隊の解散命令」でした。
この解散命令こそが、ひめゆり学徒隊を最大の惨劇へと突き落とす引き金となりました。軍幹部は「これからは各自の判断で行動せよ」と言い渡したものの、すでに南部の狭い地域は米軍に完全に包囲され、陸上からの激しい砲撃と海上からの艦砲射撃、上空からの機銃掃射が間断なく降り注ぐ「鉄の暴風」の真っ只中でした。軍事訓練も受けていない民間人の少女たちが、武器も持たずに戦火の荒野へ放り出されたのです。
公式記録によると、ひめゆり学徒隊の全犠牲者227名(生徒123名・引率教師13名・動員外関係者含む)のうち、実に100名以上が解散命令が出された6月18日以降のわずか1週間あまりの間に命を落としたことが明らかになっています。避難していた壕(伊原第三外科壕など)に米軍の黄燐手榴弾やガス弾が投げ込まれたり、壕から脱出した直後に砲撃に巻き込まれたりするなど、安全な退路が皆無の状態で少女たちは追い詰められていきました。