岸信介は何をした?昭和の妖怪の功罪と現代に続く影響を徹底解剖
岸信介は何をした?昭和の妖怪の功罪と現代に続く影響を徹底解剖に関する主要な事実を徹底的にまとめました。最新データをご確認ください。
岸信介の生涯を要約すれば、「国家の設計図を描くテクノクラート(官僚)から、権謀術数を駆使する大物政治家への転身劇」と言えます。山口県吉敷郡八坂村(現・山口市)に旧制徳山藩士の流れを汲む佐藤秀助・茂代夫妻の第2子(次男)として生まれ、のちに父の実家である岸家の養子となりました。東京帝国大学法学部を首席で卒業後、農商務省に入省。商工官僚として頭角を現した岸は、1936年に日本の傀儡国家であった「満州国」へと渡ります。
当時の満州国は、軍部と革新官僚が結託して統制経済の実験を行っていた最前線でした。総務庁次長などを歴任した岸は、日産コンツェルンの鮎川義介、関東軍参謀長の東條英機らとともに「弐キ参スケ」の一人として実権を握ります。重化学工業の大規模な育成を進める一方で、満州国財政を潤すためのアヘン専売や現地労働者の強制動員にも深く関与したとされ、この満州時代に培われた巨大な資金力と人脈、冷徹な統治手法こそが、のちに「妖怪」と呼ばれる権力基盤の原型となりました。
1941年には東條内閣の商工大臣として入閣し、太平洋戦争開戦の詔書に署名します。しかし、戦局が悪化するとサイパン島陥落を機に東條首相と正面から対立。「本土決戦は不可能であり、速やかに講和すべき」と辞職を拒否して内閣不一致を引き起こし、結果として東條内閣を総辞職に追い込む凄まじい政治闘争を展開しました。体制の中枢にいながら、潮目を読み違えずに自らの保身と国家再建の筋道を冷酷に計算する力は、当時から際立っていました。