徳姫の真実と松平信康切腹の謎|訴状の裏に潜む戦国政治の闇

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天正7年の事件で夫・信康を失った徳姫は、翌天正8年(1580年)、生後間もない2人の娘(登久姫・熊姫)を徳川家に残し、実家である尾張へと戻りました。この別れは断腸の思いであったと伝えられます。

実家に戻った徳姫を待っていたのは、さらなる時代の荒波でした。天正10年(1582年)、本能寺の変によって父・信長と長兄・信忠が急死。織田家が急速に求心力を失うなか、徳姫は次兄・織田信雄から美濃国内に領地を与えられ、庇護を受けました。しかし小田原征伐後に信雄が改易されると、徳姫は豊臣秀吉から京都に屋敷と化粧料を与えられ、上方へ居を移すことになります。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て徳川の覇権が確立すると、家康はかつての嫁であった徳姫を丁重に扱い、尾張国小川(現在の愛知県東浦町周辺)に1,700石余の知行を与えて経済的な安定を保障しました。徳姫は京都の洛北・洛中に隠棲し、茶の湯や和歌を嗜みながら静穏な晩年を送りました。

徳姫の死因は老衰(病死)とされ、寛永13年(1636年)1月10日、78歳という当時としては稀に見る長寿を全うして息を引き取りました。墓所は京都の大徳寺塔頭・総見院などに残されており、信長直系の姫として静かに眠っています。

吉田 誠

吉田 誠

インテリア&ライフスタイルコーディネーター

最新のテクノロジーと生活デザインの融合をテーマに、国内外の最新トピックを発信しています。

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