ドイツ軍はなぜ破綻したのか?シュリーフェン・プラン失敗の全真相

ドイツ軍はなぜ破綻したのか?シュリーフェン・プラン失敗の全真相について見逃せない ポイントを分かりやすい構成で解説いたします。

では、入念に準備されたはずの作戦は、なぜ決定的な破綻を迎えたのでしょうか。最大の論点として挙げられるのが、シュリーフェンの後を継いだ参謀総長小モルトケによる作戦修正の是非です。

項目シュリーフェンの原案(1905年)小モルトケの修正案(1914年実戦)作戦への影響と結果兵力配分比率(右翼対左翼)右翼(主力)約7に対し、左翼(守備)約1という極端な偏重配置増強戦力を左翼(アルザス方面)へ重点配分し、比率を約3対1まで緩和右翼の打撃力が鈍化。パリを包囲する外周機動を行う余力が失われた中立国侵犯の範囲オランダ領リンブルフ地方の通過も視野に入れた広角展開オランダの中立は維持し、ベルギー領リエージュ要塞周辺にボトルネックが集中大軍が一箇所の隘路に集中し、リエージュ攻防戦で数日間の遅延を招いたロシア軍の動員予測動員完了まで最低42日と想定し、東部は最小限の兵力で防衛ロシアの予想外の早期侵攻に動揺し、西部から2個軍団を東部へ引き抜く決定打を欠いた右翼部隊の間に危険な間隙(ギャップ)が生じる致命傷に補給と兵站(ロジスティクス)「現地調達」と強行軍を前提とし、兵站の詳細な持続性は曖昧鉄道網の破壊とトラック不足により、前線への弾薬・食料供給が枯渇猛暑下で連日30〜40kmを行軍した兵士が疲弊困憊し、戦闘力が大幅に低下

元帥シュリーフェンが臨終の際、「我が軍の右翼を強大にせよ」と言い残したという逸話は広く知られています。シュリーフェンの構想は、右翼のハンマーを極限まで重くして振り下ろすものでしたが、神経質で慎重派だった小モルトケは、祖国ドイツの領土がフランス軍に蹂躙される恐怖を拭えませんでした。その結果、左翼を補強するために右翼の兵力を相対的に削ってしまったのです。

さらに現場では、想定を覆す事態が次々と発生しました。第一に、無抵抗で通過できると侮っていたベルギー軍が、国王アルベール1世のもと猛烈に抵抗し、リエージュ要塞の攻防戦でドイツ軍のスケジュールを狂わせました。第二に、イギリス遠征軍(BEF)の迅速な展開です。

そして最大の誤算が、東部戦線におけるタンネンベルクの戦いへの影響でした。ロシア軍は未完了の動員態勢のまま、開戦からわずか2週間余りで東プロイセンに侵攻。パニックに陥った小モルトケは、西部戦線の決戦を目前にしながら、右翼から主力2個軍団を引き抜いて東部へ送ってしまいました。皮肉なことに、引き抜かれた部隊が到着する前にパウル・フォン・ヒンデンブルクらによってタンネンベルクの戦いは大勝利を収めており、西部戦線では決定打となる戦力をただ喪失しただけに終わったのです。

橋本 菜々子

橋本 菜々子

トレンドリサーチャー

グルメと旅を愛するフリーライター。全国各地の隠れた魅力を独自の視点から紹介します。

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