日露戦争の原因とは?大国ロシアの南下と開戦決断の裏側を解く

日露戦争の原因とは?大国ロシアの南下と開戦決断の裏側を解くの真相や最新動向に迫る! わかりやすい言葉でまとめました。

日露の対立を決定的かつ不可逆なものにした具体的な軍事行動が、1900年に清国で起きた排外主義蜂起である義和団事件と北清事変です。列国公使館が北京で包囲された際、日本は地理的近さを生かして最大の部隊を派遣し、秩序回復に決定的な貢献を果たしました。しかしこの混乱に乗じ、ロシアは自国が権益を持つ東清鉄道の保護を名目に、10万人を超える大軍を満州全域に展開させ、電撃的に軍事占領を完了させました。

事変が収束した後、欧米列強と清国はロシアに対して満州からの撤兵を強く要求しました。ロシアは1902年に三段階に分けた撤兵条約を清国と締結したものの、第一段階の部隊移動を終えただけで、翌1903年には突如として第2段階の撤兵を拒絶します。それどころか、ロシア軍は鴨緑江(オウリョクコウ)の河口に位置する竜岩浦(ヨンアムポ)を不法占拠し、要塞化を進め始めました。これは満州にとどまらず、いよいよ朝鮮半島への軍事侵出を本格化させた明確な合図でした。

当時の外務省記録や元老たちの書簡には、当時の張り詰めた現場の空気が克明に残されています。参謀本部次長の児玉源太郎は、シベリア鉄道の単線区間が複線化され、バイカル湖周回鉄道が完成すれば、ロシア軍の極東輸送能力は何倍にも膨れ上がると分析していました。「今戦わなければ、2年後には戦うことすらできずに屈服するしかない」。この時間的制約に追われる焦燥感こそが、開戦を後押しした最大の心理的要因でした。

林 結菜

林 結菜

ライフスタイル編集者

エンタメ・カルチャー業界の深掘り取材を得意とし、現場のリアルな声をお伝えします。

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