最後の浮世絵師・月岡芳年の狂気と真相|血みどろ絵から月百姿の到達点まで
最後の浮世絵師・月岡芳年の狂気と真相|血みどろ絵から月百姿の到達点までの全体像を分かりやすくまとめてご紹介します。
月岡芳年を語る上で避けて通れないのが、幾度となく囁かれる「発狂の真相」です。明治5(1872)年前後、芳年は33歳の若さで深刻な神経衰弱と鬱状態に陥り、一時的に作画が完全にストップしました。当時の記録や関係者の証言によると、弟子たちを全員破門し、夜中に奇声を上げたり幻覚に怯えたりするほどの精神破綻をきたしていたと伝えられています。後世のゴシップでは「凄惨な血みどろ絵を描きすぎたせいで自ら狂気に呑まれた」とドラマチックに語られがちですが、真の引き金は極めて現実的な生活苦と時代の急変でした。
明治維新に伴い、浮世絵界は壊滅的な打撃を受けました。写真技術や西洋から輸入された石版画(リトグラフ)の台頭、新聞・雑誌の創刊ラッシュにより、木版画の需要は激減。芳年自身も絵の注文が途絶え、敷布や衣類を質に入れ、畳を上げて床板を薪代わりに燃やして暖を取るほどの赤貧洗うがごとき極貧生活に転落していました。さらに、少年期から親しんだ江戸情緒の完全な破壊に対する心理的ショック、新時代への適応不全が重なり、真面目で完璧主義だった彼のメンタルを粉々に打ち砕いたのです。
しかし、芳年はここで終わりませんでした。支援者や内縁の妻の献身的な看護により、明治6(1873)年頃に奇跡的な回復を見せます。彼は「大きく蘇る」という意味を込めて自ら画号を「大蘇芳年(たいそほうねん)」と改名。この復活劇こそが、彼の画業における第二の黄金期の幕開けとなりました。
死因の真相についても、長年「狂死」というセンセーショナルな言葉で片付けられてきましたが、客観的事実は異なります。晩年の明治24(1891)年末、再び精神の混迷を来して松沢病院の前身である東京府巣鴨病院に入院したのは事実ですが、退院後の明治25(1892)年6月9日に53歳で息を引き取った直接の病名は「脳充血(現在の脳血管障害や脳卒中に相当)」でした。死の直前まで新たな版画シリーズの構想を練り、枕元には写生帖が置かれていたという証言が残されており、狂気の中で野垂れ死んだのではなく、最後の瞬間まで絵筆を握り続けようとした職業絵師の壮絶な病没であったことが判明しています。