鹿鳴館の真実|舞踏会の裏に隠された井上馨の野望と崩壊の全貌
鹿鳴館の真実|舞踏会の裏に隠された井上馨の野望と崩壊の全貌を徹底追究! 知っておきたい 重要ポイントを分かりやすく展開します。
鹿鳴館では連夜のようにバザーや晩餐会、そして舞踏会が催されました。特に毎年11月3日の明治天皇の誕生日(天長節)には盛大な夜会が開かれ、政府高官や華族の夫人たちが煌びやかなイブニングドレスを身にまとい、ワルツやポルカに合わせてステップを踏みました。
しかし、この華麗な光景の裏には、参加者たちの筆舌に尽くしがたい苦悩と摩擦がありました。当時の日本の貴婦人たちにとって、コルセットでウエストを締め上げ、胸元を大きく露出させる西洋のドレスは羞恥の極みであり、男性と手を取り合って踊る行為自体が伝統的な道徳観と激しく衝突していたのです。政府はダンス教師を雇い、突貫工事でマナーやステップを叩き込みましたが、不慣れな所作は否めませんでした。
さらに屈辱的だったのは、歓待されたはずの外国人たちの冷酷な眼差しです。フランスの海軍士官で作家のピエール・ロティは、鹿鳴館の舞踏会を目撃し、その著書『江戸の舞踏会』の中で以下のような辛辣な手記を残しています。
「彼らはまるで操り人形のようだ。慣れない洋服を着せられ、リズムに合わないステップを踏む姿は、まるで訓練された猿のサーカスを見ているかのようである」
当時の報道や手記によると、欧米列強の外交官たちは日本のワインや料理を楽しみながらも、外交交渉のテーブルでは一歩も譲歩しませんでした。外見だけを西洋風に繕ったところで、軍事力や経済力、法体系の裏付けがない外交は「弱者の媚態」としか映らなかったのが、鹿鳴館外交の冷厳な真実でした。
さらに国内世論の反発も猛烈を極めました。1886年に発生した「ノルマントン号事件」(イギリス船が沈没した際、白人乗組員は全員救命ボートで脱出し、日本人乗客25名全員が水死した事件で、領事裁判により船長が無罪同然となった事件)により、国民の怒りは沸点に達します。「同胞が見殺しにされ不当な判決を受けている最中に、高官たちは鹿鳴館で敵国相手に浮かれ騒いでいるのか」という激しい批判が巻き起こり、自由民権派や国粋主義者から「国辱外交」の象徴として指弾されることになりました。