「天下の美男子」名古屋山三郎とは何者か?出雲阿国との真実と非業の最期
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京都での放蕩生活を経て、慶長年間、山三郎に再び武士としての表舞台が開かれます。森蘭丸の弟であり、美作津山藩(岡山県津山市)の初代藩主となった森忠政からの熱烈な招聘でした。忠政は山三郎の武勇とカリスマ性を高く買い、扶持2,000石(一説に5,000石とも)という破格の重臣待遇で迎え入れました。しかし、この厚遇が悲劇の引き金を引くことになります。
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森家の古参家臣団にとって、外様でありながら突如として筆頭格に収まった山三郎の存在は、到底受け入れがたいものでした。その軋轢が頂点に達したのが、新城(津山城)の築城工事現場である美作・院庄でした。そこで対峙したのが、森家の譜代重臣・井上達脇(いのうえ たつわき)です。
名古屋山三郎の死因となったのは、慶長8年(1603年)4月12日に勃発したこの両名の刃傷沙汰です。築城の作業手順を巡る口論を発端に、達脇が激昂して抜刀。山三郎も即座に刀を抜いて応戦し、白昼の工事現場で激しい斬り合いが演じられました。激闘の末、山三郎は達脇に深手を負わせるも自らも刺され、32歳前後の若さで絶命。名古屋山三郎の最期は、あまりにも唐突で凄惨な非業の死でした。
事件を知った森忠政は激怒し、その場で重傷を負っていた井上達脇を家臣に命じて手討ちにし、さらに井上の一族を容赦なく処刑・追放しました。一方、非業の死を遂げた名古屋山三郎の子孫や遺族については、森家が手厚く保護したものの、武家社会の荒波に揉まれてその直系血統は歴史の表舞台から静かにフェードアウトしていくことになります。