東北地方の県庁所在地全6県を解剖!盛岡と仙台が県名と異なる真相
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多くの学習者が抱く最大の疑問は、「なぜ盛岡県や仙台県にならなかったのか」という点に尽きます。その起源は、明治4年(1871年)に断行された廃藩置県とその後の府県統合の歴史に遡ります。
幕末の戊辰戦争において、東北諸藩は「奥羽越列藩同盟」を結成し、明治新政府軍と激しい内戦を繰り広げました。その同盟の中心勢力だったのが、伊達家が治めた仙台藩(62万石)と、南部家が治めた盛岡藩(20万石)です。
1. 岩手県が「盛岡県」にならなかった背景
盛岡藩は戊辰戦争で新政府軍に降伏した後、明治3年に財政難から藩を返上し、一時「盛岡県」が置かれました。しかし翌明治4年の廃藩置県と再編を経て、県庁が置かれた岩手郡仁王村(現・盛岡市中心部)の郡名を取って、明治5年に「岩手県」へと改称されました。
当時、旧藩主の支配権力が強大だった地域では、民衆の意識から「南部藩」「盛岡藩」という封建時代の記憶を消し去るため、都市名(城下町名)ではなく広域の郡名を採用したという側面が強く働いていました。
2. 宮城県が「仙台県」から改称された理由
宮城県も同様の劇的な変遷をたどっています。明治4年の廃藩置県当初、実は一度「仙台県」という名称で発足していました。しかし、わずか数か月後の明治5年1月、新政府は県名を「宮城県」へと強制的に改称します。
太政官布告などの公文書を検証すると、県庁が所在する宮城郡仙台の郡名から取った形をとっています。東北最大の城下町として威容を誇った「仙台」の名を県名からあえて排除することで、旧伊達藩の政治的・心理的な残影を解体し、新国家の統治機構下に完全に組み込む意図が込められていました。