一里は何キロ?約3.9Kmの理由と徒歩時間・中国との違いを徹底解説
一里は何キロ?約3.9Kmの理由と徒歩時間・中国との違いを徹底解説についての疑問解決ガイドを徹底解説します。
慶長9年(1604年)、江戸幕府を開いた徳川家康は重臣の大久保長安に命じ、江戸日本橋を起点とする五街道(東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道)の全線にわたって「一里塚(いちりづか)」を築かせました。
道路の両側に5間(約9メートル)四方の土盛を行い、その頂に榎(エノキ)や松を植えたこの塚は、単なる距離の目印にとどまらない複数の高度な社会インフラ機能を担っていました。
【一里塚が果たした3つの重要機能】
1. 運賃の公定化(トラブル・不当請求の防止):
宿場で荷物を運ぶ人足や馬子(まご)の利用料金は「一里あたり〇〇文」と幕府によって公定されていました。距離を可視化することで、旅人がぼったくり被害に遭うのを防ぎ、物資流通のコストを透明化しました。
2. 旅人の熱中症予防と休憩所(シェルター機能):
塚の上に主に榎が植えられた理由は、根が深く張って土手が崩れにくいこと、そして夏場に枝葉が大きく茂って濃い日陰を作るためでした。当時の旅人は一里塚の木陰で腰を下ろし、水分を補給して休息を取りました。
3. 視認性の高いランドマーク(ナビゲーション):
平地だけでなく峠道や街道の要所にそびえ立つ一里塚は、遠方からでも目視でき、次の宿場までの残り距離を正確に把握できるGPS代わりの標識として機能しました。
街道歩きの記録を残した当時の紀行文や手記(十返舎一九の『東海道中膝栗毛』など)を紐解くと、江戸時代の一般庶民は1日に「約十里(約35km〜40km)」を平然と歩いていました。朝4時頃(明け六つ)に出立し、一里ごとに息を整えながら夕方16時頃(暮れ六つ)までに10カ所の一里塚を通過する——それが江戸期の旅における標準的なタイムスケジュールだったのです。