代官山に佇む重文「旧朝倉家住宅」が破格の100円で公開される真の理由

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旧朝倉家住宅の歴史と経緯を紐解くと、奇跡という言葉なしには語れないいくつもの歴史的転換点に行き当たります。この壮大な邸宅を建造したのは、渋谷区議会の前身である渋谷町議会議長や東京府議会議長、さらには精米業組合の要職を歴任した政治家・実業家の朝倉虎治郎(あさくら とらじろう)です。朝倉虎治郎の経歴は、東京が近代都市へと急速に変貌を遂げていく明治から大正期における地方自治・産業育成の歩みそのものでした。朝倉家は代々、旧上渋谷村・猿楽町の素封家であり、地域の発展を牽引した名望家として知られています。

虎治郎が本邸としてこの建物を完成させたのは大正8年(1919年)のことです。当時としては最新の技術と銘木を惜しみなく注ぎ込んだ邸宅でしたが、完成からわずか4年後の大正12年(1923年)、マグニチュード7.9の関東大震災が帝都を襲います。東京市内の木造家屋の多くが倒壊・焼失するなか、南西傾斜の台地を固めた強固な地盤と職人たちの緻密な木組み構造により、朝倉邸はほぼ無傷で激震を耐え抜きました。さらに、昭和20年(1945年)の東京大空襲でも周囲一帯が焦土と化すなか、奇跡的に戦火を免れることになります。

しかし、真の試練は戦後に訪れました。昭和22年(1947年)、財閥解体や激しい税制改革の渦中で朝倉家の手を離れた本物件は、大蔵省(現・財務省)の所管へと移ります。中央官庁の官有地となった邸宅は、経済企画庁(現・内閣府)の分室・迎賓施設として使われ、高度経済成長期の熾烈な民間開発圧力から防波堤のように守られ続けました。もし民間企業や不動産デベロッパーの手に渡っていれば、バブル期に解体され、超高級マンションへと姿を変えていたことは疑いようがありません。

山田 真由

山田 真由

自動車・モビリティライター

暮らしを豊かにする便利アイテムや時短アイデアを中心に、実用的な情報をお届けします。

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