吉田松陰の盟友・宮部鼎蔵の真実|池田屋事件の最期と子孫の現在
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文久3年(1863年)の「八月十八日の政変」により、京都から長州藩を中心とする尊王攘夷派が追放されると、宮部鼎蔵は潜伏する志士たちの重鎮として京都に残り、運動の再起を図りました。長州、土佐、肥後などの過激派志士が集い、宮部は最年長のまとめ役として精神的支柱の役割を担っていました。
そして運命の元治元年6月5日(1864年7月8日)、三条木屋町の旅館「池田屋」で悲劇は起こります。近藤勇、沖田総司、永倉新八ら新選組隊士約30名による深夜の電撃奇襲——いわゆる池田屋事件です。
奥座敷で密議を行っていた宮部は、階下からの怒号と斬撃の音で異変を察知します。当時の目撃証言や生き残った志士の回顧録によると、宮部は慌てふためく若手たちを一喝して冷静さを保たせ、自ら刀を抜いて新選組隊士たちと激しい白兵戦を展開しました。狭い階段や廊下で幾人もの敵と刃を交え、凄まじい太刀筋で奮戦したと伝えられます。
しかし、多勢に無勢の中で重傷を負った宮部は、敵の捕縛の手が伸びるのを見て覚悟を決めました。敵の手にかかって生捕りの屈辱を受けることを潔しとせず、「もはやこれまで」と叫んで自らの喉を突き、見事な自刃を遂げたのです。享年45。肥後の生んだ巨星は、尊皇の炎燃え盛る京都の夜に散りました。