桂ざこばの死因と壮絶闘病記|遺された家族の現在と上方落語の遺産
桂ざこばの死因と壮絶闘病記|遺された家族の現在と上方落語の遺産を徹底追究! 読者が気になる 情報と解説を凝縮して配信します。
桂ざこばの原点は、1963年、わずか15歳で三代目桂米朝に入門した瞬間に遡ります。入門時の高座名は桂朝丸(ちょうまる)。端正で論理的な芸を重んじる米朝一門にあって、感情を剥き出しにし、全身で怒りや悲しみを表現する朝丸のスタイルは、当初「一門の異端児」とも目されました。
1970年代から1980年代にかけ、朝丸はテレビ界で空前の人気を博します。『ウイークエンダー』での熱血レポーターぶりや、「動物園」「へっつい盗人」といった古典落語を独自の躍動感で演じる姿は、若い世代の上方落語ファンを爆発的に増やしました。しかし、華やかなテレビタレントとしての成功の裏で、本人は「師匠の米朝のような格調高い落語ができない」という深刻な劣等感と闘い続けていたと、自著で述懐しています。
そんな朝丸の最大の理解者であり、ライバルであり、魂の支えだったのが、兄弟子である桂枝雀でした。天才肌で芸を突き詰め続けた枝雀と、感情のリアリズムを極めたざこば。二人は互いの芸を誰よりも高く評価し合っていました。1988年、朝丸から二代目桂ざこばを襲名した際、枝雀は誰よりも喜び、壇上で弟弟子を力強く抱き締めました。
1999年に枝雀が自ら命を絶った際、通夜の席でざこばが「兄ちゃん、なんでや!なんで死んだんや!」と人目をはばからず号泣し、棺にすがりついた姿は語り草となっています。米朝という絶対的な師父と、枝雀という孤高の天才。二人の巨人を間近で見つめ続けたからこそ、ざこばの落語には、誰にも真似できない人間の業と哀愁が色濃く宿るようになったのです。