世界三大美女に小野小町は日本だけ?誰が決めたのか歴史の真相に迫る
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では、一体誰がこの3人を選び出したのでしょうか。宮内庁や文部科学省のような公的機関が認定した記録は一切存在しません。近年の歴史学やメディア論の研究成果によれば、この言説の震源地は明治から大正にかけての日本にあります。
東京大学大学院総合文化研究科の永井久美子准教授らの研究や言説史の追跡調査によると、明治期の新聞や女性誌、教育論の言説空間において、女性の美や地位を論じる文脈で「三大美人」「三大美女」の原型が形作られたことが判明しています。明治維新によって急速な近代化を進めていた当時の日本は、西洋列強に追いつき追い越せという激しいナショナリズムの渦中にありました。「世界三大瀑布」や「世界三大珍味」のように、事物に「世界三大」の冠をつけて知識として定着させる博覧会的な啓蒙ブームが巻き起こっていた時代です。
その際、エジプトのクレオパトラと中国の楊貴妃までは、世界史教育の導入や古典的教養からスムーズに選出されました。楊貴妃は平安貴族が愛読した白居易の漢詩『長恨歌』を通じて、すでに1000年近く日本人に親しまれた「美の絶対的指標」でした。そこに西洋近代史の文脈から、ローマの英傑たちを籠絡したエジプト最後の女王クレオパトラが合流します。
しかし、そこで終わらせず「日本代表を1人送り込みたい」という国家的自負と文化的アイデンティティが働きました。白羽の矢が立ったのが、平安初期の才女・小野小町です。『古今和歌集』の仮名序において紀貫之から「艶なる歌風」を称賛され、能の演目(「七小町」)や各地の伝説を通じて「絶世の美貌と誇り高さを持つ悲劇の歌人」として庶民層まで知れ渡っていた小町は、世界列強の美女たちに対抗しうる唯一無二の存在として祭り上げられたのです。