江戸時代の銭湯はなぜ混浴?暗闇の風呂と驚きの料金・マナーの全貌
江戸時代の銭湯はなぜ混浴?暗闇の風呂と驚きの料金・マナーの全貌の具体的な内容に迫る! 専門的な視点でご紹介しています。
インターネット上の言説や俗説において、「江戸時代の混浴は寛政の改革で一発禁止になり、すぐに男湯と女湯に分かれた」と単純化して語られるケースが散見されます。しかし、歴史的事実を丹念に追うと、事態はそれほど単純ではありませんでした。
江戸幕府の老中・松平定信が推進した「寛政の改革(1789年〜1801年)」において、風俗粛正の一環として確かに厳格な混浴禁止令が発令されました。しかし、町中の銭湯経営者たちからは猛烈な反発が起こりました。なぜなら、狭い敷地の中で男女の湯船を完全に2つに分ける工事には莫大な費用がかかり、零細な湯屋経営を直撃したからです。
幕府の命令に対する町民や業者の対応は極めて抜け目ないものでした。完全な別室を作る代わりに、湯船の真ん中に薄い木板を1枚渡しただけの形ばかりの仕切りを設けたり、奇数日と偶数日で男女を入れ替える「日割制」でお茶を濁したりする店舗が続出しました。結果として、幕府が何度禁止令を再発令しても混浴文化は根強く生き残り、完全に男湯・女湯の分離が定着したのは、明治政府が外国人からの視線を気にして徹底的な取り締まりを行った明治時代中期以降のことでした。
また、「湯屋(ゆや)」と「風呂屋(ふろや)」という言葉の使い分けについても誤解されがちです。江戸時代において、たっぷり湯を張った浴槽に入る施設を「湯屋」、蒸気浴を行う施設を「風呂屋」と厳密に呼び分けていましたが、時代とともに設備が統合され、総称として銭湯と呼ばれるようになっていきました。