四国艦隊下関砲撃事件の真相!長州敗北が日本を救った逆転劇と幕末の激動

四国艦隊下関砲撃事件の真相!長州敗北が日本を救った逆転劇と幕末の激動に関する深掘り解説を分かりやすく解説いたします。

四国艦隊下関砲撃事件の根本的な原因を理解するには、前年である1863年(文久3年)5月10日に時計の針を戻す必要があります。当時、江戸幕府は尊王攘夷派の台頭と朝廷からの強い圧力に押され、諸藩に対して「5月10日をもって一斉に攘夷(外国人の排斥)を決行すべし」という幕命を発令していました。しかし、列強諸国との軍事力格差を痛感していた幕府本営や他藩は、この期日を事実上無視して何ら行動を起こしませんでした。

その中で唯一、幕命を真に受けて原理主義的に決行したのが長州藩でした。関門海峡の下関(馬関)に厳重な砲台を築いていた長州藩は、期日当日に海峡を通過しようとしたアメリカ商船ペンブローク号を突如砲撃。さらに数日後にはフランス通報艦キンシャン号、オランダ軍艦メデューサ号に対しても無差別攻撃を浴びせました。これが世にいう「下関事件(馬関事件)」です。

当然ながら、被害を受けた欧米列強は黙っていませんでした。直後に米仏の軍艦が報復として下関前田砲台を一時占領・破壊したものの、長州藩は砲台を修復・強化し、海峡の封鎖を継続しました。関門海峡は、上海や横浜、長崎を結ぶ東アジア有数の国際貿易航路であり、ここを武装封鎖されることは列強諸国にとって看過できない経済的・軍事的打撃でした。

一方、国内政治の力学も長州藩を追い詰めていました。1863年8月の「八月十八日の政変」で長州勢力は京都から追放され、翌1864年(元治元年)7月の「禁門の変(蛤御門の変)」では会津藩や薩摩藩と激突して敗北。長州藩は「朝敵(朝廷の敵)」の烙印を押され、国内で完全に孤立無援の境遇へと転落していたのです。国内外からの重圧が極限に達したその瞬間、四カ国連合艦隊による制裁行動の火蓋が切られました。

山下 哲也

山下 哲也

自動車・モビリティライター

デジタルガジェットとスマート家電の検証記事を多数執筆。失敗しないモノ選びを提案します。

Share this article
Twitter Facebook Pinterest