真田幸村と六文銭の深層|三途の川の渡し賃に込めた覚悟と歴史の真実
真田幸村と六文銭の深層|三途の川の渡し賃に込めた覚悟と歴史の真実の全体像を丁寧に掘り下げてご紹介します。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、そして翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣において、真田幸村(信繁)の名は日本全土に轟くことになります。豊臣方の浪人衆の1人として大坂城に入城した幸村は、出城「真田丸」を築き、圧倒的な兵力差を誇る徳川軍を完膚なきまでに撃退しました。
この大坂の陣で幸村が率いた部隊は、甲冑から槍の柄、旗印に至るまですべてを朱赤で統一した「赤備え」でした。赤備えはかつて武田信玄配下の飯富虎昌や山県昌景、そして徳川四天王の井伊直政が率いた最強精鋭部隊の証です。幸村は自軍に赤備えを纏わせ、そこに黄金色に輝く「六文銭」の旗印を翻らせました。
『大坂夏陣覚書』などの史料によると、夏の陣の天王寺・岡山の戦いにおいて、幸村は徳川家康の本陣へめがけて決死の突撃を敢行しました。家康の本陣馬印が倒されたのは三方ヶ原の戦い以来であり、家康自身も自害を覚悟したと伝えられます。赤一色の装束に六文銭を配した幸村の軍勢は、死を完全に克服した「修羅」の集団として徳川方の兵たちに極度の恐怖を植え付けました。六文銭の持つ「死を恐れない覚悟」が、視覚的・心理的デザインとして極限まで発揮された瞬間でした。