種子島の鉄砲伝来はなぜ起きた?国産化の真相と戦国を激変させた技術革命
種子島の鉄砲伝来はなぜ起きた?国産化の真相と戦国を激変させた技術革命についての真相をご紹介します。
鉄砲伝来に関しては、長年の通説や創作物によって広まった誤解が少なくありません。最新の歴史研究で明らかになっている事実をもとに、代表的な3つの俗説を検証します。
誤解1:日本人は1543年まで火薬兵器を全く知らなかった?
「鉄砲が来るまで日本人は火薬を知らなかった」というのは明確な誤りです。鎌倉時代の元寇(1274年)において、蒙古軍が使用した炸裂弾「てつはう」を日本側は目撃・鹵獲しています。また、15世紀の室町時代には、中国から伝わった原始的な青銅製ハンドキャノン「銃筒(じゅづつ)」や「火槍」の情報も一部で伝わっていました。
しかし、それらは命中精度が極めて低く、音や煙で威嚇する用途が主でした。種子島にもたらされた火縄銃の真の衝撃は、「照準器(照星・照門)を持ち、狙った標的を確実に射程外から一撃で仕留められる個人携行火器」だった点にあります。
誤解2:漂着したのはポルトガルの軍艦だった?
「ポルトガル船が漂着した」と語られがちですが、実際に種子島へ入港したのは中国様式のジャンク船でした。船長は明国の密貿易商人であり、ポルトガル人はあくまで便乗していた貿易商人に過ぎません。当時の東シナ海は、明、琉球、東南アジア、ポルトガル、日本の商人や海賊が入り乱れる国際的な自由貿易地帯であり、鉄砲の持ち込みもそうした多国籍な海上ネットワークの副産物だったのです。
誤解3:長篠の戦いにおける「三段撃ち」の虚実
1575年の長篠の戦いで、織田信長が鉄砲隊を3列に並べて交代で連続射撃を行ったとされる「三段撃ち」。近年の実証研究では、江戸時代初期に成立した軍記物『信長公記』の原記述の精査から、整然とした三段射撃フォーメーションがそのまま実行されたかについては議論が続いています。
しかし、信長が馬防柵を前線に築き、弾薬・火薬の大量調達を行い、足軽部隊に銃を集中配備して連続的に弾幕を張る集団運用戦術を確立していたことは紛れもない事実です。個々の射撃速度の遅さを陣形と組織力で補った点こそが、軍事史上最大のイノベーションでした。