稲葉家の家系図に隠された驚愕の真相!春日局のルーツから現代の末裔まで
稲葉家の家系図に隠された驚愕の真相!春日局のルーツから現代の末裔までの見逃せないポイントをわかりやすく整理しました。
名門として名高い稲葉家のルーツや家系図に隠された真相とは一体何だったのでしょうか。その核心は、「宗家(本家)の安定」と「外戚・幕閣としての台頭」という、見事なまでに役割分担された二系統の生存戦略にあります。稲葉家の歴史を紐解く上で最も重要な稲葉家の家系図は、大きく分けて二つの大名家として近世を歩むことになります。
第一の系統が、稲葉一鉄の嫡男である稲葉貞通から始まる臼杵藩 稲葉家(宗家)です。貞通は関ヶ原の戦いにおいて当初西軍に属したものの、最終的に東軍の徳川家康に恭順。その戦功によって慶長5年(1600年)、美濃八幡(郡上)から豊後国臼杵(現・大分県臼杵市)5万石へと移封されました。以後、明治維新による廃藩置県に至るまでの約270年間、一度の転封も改易もなく15代にわたって同地を治め続けました。江戸期の大名統制において、国替えを一度も経験せずに同一の地を領し続けた外様・譜代大名は全国的にも極めて珍しい事例です。
第二の系統が、一鉄の親族(一鉄の庶子または甥)である稲葉正成を祖とする系統です。正成の後妻となったのが、明智光秀の重臣・斎藤利三の娘である「お福」、のちの春日局でした。春日局が徳川家光の乳母として権勢を振るうと、その血統と正成の家系は大出世を遂げます。正成の嫡男・稲葉正勝は老中職を務めて小田原藩8万5000石を領し、その子孫は越後高田藩、下総佐倉藩などを経て、最終的に山城国淀藩(現・京都府京都市伏見区)10万2000石の大名として幕末まで続きました。
家系図を丹念に追うと見えてくる真相は、血縁の純血主義に囚われず、時には養子を柔軟に迎え入れながら、徳川宗家や有力公家との姻戚関係を網の目のように張り巡らせていた事実です。この複線的な血脈維持こそが、稲葉家を近世から近代へと繋いだ最大の原動力でした。