長篠の英雄・鳥居強右衛門の真実!壮絶な最期と現代へ続く子孫の血脈

話題沸騰中の 長篠の英雄・鳥居強右衛門の真実!壮絶な最期と現代へ続く子孫の血脈について、主要な情報をご紹介しています。

鳥居強右衛門勝高(かつたか)は、三河国作手(現・愛知県新城市)を本拠とした国衆・奥平家に仕える歩兵(足軽)身分の武士でした。城主・奥平信昌(当時は貞昌)と強右衛門の主従関係は、単なる雇用関係を超えた強固な信頼で結ばれていたと『三河物語』などの軍記物は伝えています。

1575年5月、武田信玄の跡を継いだ武田勝頼率いる1万5000の大軍が、奥平勢わずか500人が籠もる長篠城を完全包囲しました。城内の兵糧と弾薬は底をつき、落城は時間の問題となっていました。この絶対絶命の窮地において、主君・信昌の密命を受け、約65キロメートル離れた岡崎城へ援軍を求める使者として白羽の矢が立ったのが、泳ぎが得意で地理に明るかった強右衛門でした。

強右衛門は夜陰に乗じ、城の裏手を流れる豊川(寒狭川)の水中に潜水。武田軍が張り巡らせていた鳴子(水中警報装置)の罠を巧みに潜り抜け、敵の厳重な警戒網を単身で突破することに成功しました。翌日の昼には岡崎城へ到着し、徳川家康および援軍として着陣していた織田信長に対し、長篠城の緊迫した現状を具に報告したのです。

吉田 誠

吉田 誠

インテリア&ライフスタイルコーディネーター

最新のテクノロジーと生活デザインの融合をテーマに、国内外の最新トピックを発信しています。

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