戦時中の服装の真実|もんぺ・国民服の義務化と「贅沢は敵」の裏の工夫

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戦時中の日本人が最初から一様にあの装いをしていたわけではありません。衣服の統制は、1937(昭和12)年の日中戦争勃発を契機に、段階的に強化されていきました。日本は繊維原料である綿花や羊毛の大部分を英米圏からの輸入に依存していたため、開戦による外貨不足と貿易制限によって、まず繊維業界が直接的な打撃を受けたのです。

1938年には「国家総動員法」が制定され、原料の軍需優先配分が始まります。街から良質な綿製品や毛織物が姿を消す中、1940年7月7日にはいわゆる「七・七禁令(贅沢品等製造販売制限規則)」が公布・施行されました。これにより、一定価格を超える高級絹織物や貴金属、装飾品などの製造・販売が全面的に禁止されます。国民精神総動員本部によって銀座などの街頭に「ぜいたくは敵だ!」の立て看板が林立したのは、まさにこの時期のことです。

男性の装いを一変させた契機は、1940年11月1日に公布された「国民服令」でした。陸軍省と厚生省が主導して考案された国民服は、軍服に極めて近いデザインを持ち、平時は背広代わりとして着られ、有事の際には襟章などを付け替えるだけでそのまま召集兵の軍服として転用できる「合理的な戦時標準服」として設計されました。このとき制定されたのは主に立襟・開襟兼用の「甲号」と、より簡素な開襟の「乙号」です。後述するように、制定当初はあくまで奨励にとどまっていましたが、戦況の悪化とともに事実上の強制服へと変貌していきました。

一方、女性のシンボルとなった「もんぺ」は、もともと東北地方や山間部で用いられていた伝統的な作業着(雪国のはかま)でした。1940年前後から大日本婦人会などを通じて「活動的な標準服」として普及活動が展開され、1942年の「婦人標準服」制定において、活動衣として正式に採用されます。着物を着たままでは防空演習のバケツリレーや避難活動が不可能であるという実利的な理由から、防空体制の強化と連動して女性の日常着へと浸透していった経緯があります。

鈴木 陽菜

鈴木 陽菜

テックライター兼ウェブディレクター

暮らしを豊かにする便利アイテムや時短アイデアを中心に、実用的な情報をお届けします。

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