勝率9割6分超の怪物・雷電為右衛門はなぜ横綱になれなかったのか?
勝率9割6分超の怪物・雷電為右衛門はなぜ横綱になれなかったのか?について見逃せない ポイントを分かりやすい構成で解説いたします。
勝率9割6分を超え、28回もの優勝相当成績を残した雷電が、なぜ最高峰の「横綱」になれなかったのか。この問いは、大相撲史における最大のミステリーの1つとして論じられてきました。先輩である谷風梶之助やライバルの小野川喜三郎が横綱免許を授与されている事実を考慮すれば、雷電の実力や実績が不足していたはずはありません。
真相を解く鍵は、江戸時代における「横綱」という概念の特異性と、幕府・大名家を取り巻く権力構造にあります。
当時は現代と異なり、横綱は力士の最高位(地位)ではありませんでした。番付上の最高位はあくまで「大関」であり、横綱とは大関の中で特別に「土俵入りの際に注連縄(しめなわ)を締めることを許された名誉資格(免許)」に過ぎなかったのです。
そして、この横綱免許を授与する権限を握っていたのが、肥後熊本藩(細川家)を後ろ盾とする相撲司家・吉田司家でした。ここに決定的な障壁が存在していました。
雷電は出雲松江藩の藩主・松平治郷(不昧公)のお抱え力士でした。当時、大名たちの間でのお抱え力士の活躍は藩の威信をかけた代理戦争であり、細川家と松平家の間には激しい対抗意識がありました。さらに、京都の五条家と熊本の吉田司家による相撲の正統後継争いなど、角界内部の利権対立が激化していた時期でもありました。
吉田司家が谷風と小野川に横綱免許を授与したのは、寛政元年(1789年)のことです。これは司家が自身の権威を確立するための政治的プロパティでした。その後、両者が引退・死去した際、松江藩所属の雷電に免許を与えることは、熊本藩の後ろ盾を持つ司家にとって容易に飲めない力学が働いていました。
さらに見逃せないのが、雷電自身と松江藩のスタンスです。当時の松江藩主・松平不昧公は雷電の強さを誇りとしており、「雷電は大関にして既に天下無双であり、誰かの免許など受けずとも誰もが認める第一人者である」という自負を抱いていました。富岡八幡宮にある歴代横綱碑に雷電の名はなく、代わりに並んで建てられた石碑には「無類力士」としてその名が刻まれています。制度や派閥の枠組みを超越した「別格の存在」として遇されていたことこそが、彼が横綱免許を必要としなかった、そして授与されなかった歴史的真相です。