システィーナ礼拝堂天井画の謎とは?ミケランジェロ苦闘の真相と見どころ

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システィーナ礼拝堂天井画の制作期間は、1508年5月から1512年10月までの約4年5か月に及びます。1477年から1480年にかけて教皇シクストゥス4世によって建立された礼拝堂の天井には、もともとピエル・マッテオ・ダルメーリアによる「青地に金色の星」を描いた素朴な夜空の図案が存在していました。これを一新し、前代未聞の壮大な図像プログラムで埋め尽くす命令を下したのが、「恐るべき教皇(イル・テッリビレ)」の異名をとった教皇ユリウス2世でした。

当時33歳だったミケランジェロは、すでに『ピエタ』や『ダヴィデ像』を完成させ、彫刻家としての名声を欲しいままにしていました。彼自身がユリウス2世に宛てた書簡や友人に漏らした言葉の中には、「私の仕事は絵画ではない」という強烈な拒絶が幾度も記録されています。絵画、とりわけ高度な専門性とスピードを要求されるフレスコ画の技術において、自分は本職ではないと頑なに主張したのです。

歴史家ジョルジョ・ヴァザーリの記述によると、この巨大プロジェクトへの推薦の陰には、建築家ドナト・ブラマンテによる政争の策略が潜んでいたとされています。当時、ユリウス2世の壮大な霊廟彫刻の制作を進めていたミケランジェロを快く思わなかったライバルたちが、彼が経験の浅い天井フレスコ画で大失敗し、教皇の寵愛を失うことを目論んで推薦したという経緯です。しかし、ミケランジェロはこの謀略を察知しながらも、最終的には教皇の狂気じみた情熱と威圧に屈する形で契約を結ぶことになりました。

制作の現場は、まさに地獄そのものでした。ミケランジェロが友人の詩人ジョヴァンニ・ダ・ピストイアに宛てた有名な自筆の手紙には、自嘲を交えた痛切な詩とスケッチが残されています。

「この労働のせいで、私の甲状腺はまるで猫が沼の水を飲むように喉仏の下で腫れ上がり、腹は顎の下まで押し込まれた。背骨は弓なりに軋み、絵の具の飛沫が顔に絶え間なく滴り落ちて、私自身の顔がまるでモザイク舗装のようだ」

現場では足場の上に立ったまま、首を後方へ直角近くまで反らし、腕を頭上に掲げ続ける姿勢を連日強いられました。滴る漆喰と顔料が眼球を痛め、視力は著しく低下。30代前半の若さであった彼の肉体は、この4年間で急速に老化し、慢性的な関節痛と頭痛に苛まれることになります。さらに、進捗を焦る教皇ユリウス2世は足場に自ら登っては「いつ終わるのだ」と詰め寄り、怒声と杖を振り回してミケランジェロを追い詰めました。互いに頑固で激越な性格であった二人の激突は日常茶飯事であり、ミケランジェロが怒りのあまりフィレンツェへ無断で逃げ去り、教皇が連れ戻すという騒動すら引き起こされたのです。

中島 亮太

中島 亮太

写真家・フォトエディター

シンプルで洗練された住まいづくりとインテリアコーディネートのアイデアを提案しています。

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