秀吉と光秀の確執とは?本能寺の変「黒幕説」の真相と山崎の勝因
秀吉と光秀の確執とは?本能寺の変「黒幕説」の真相と山崎の勝因について知っておくべき ポイントを分かりやすい構成で解説いたします。
山崎の戦いで主君の仇敵・光秀を討ち果たした秀吉は、織田家中における「筆頭実力者」としての発言力を手に入れました。その政治的権力を決定づけたのが、天正10年6月27日に尾張・清須城で開かれた「清須会議」です。
宿老筆頭である柴田勝家は、信長の三男である織田信孝を後継者に推しました。これに対し秀吉は、本能寺の変で信長とともに散った正当な後継者・織田信忠の嫡男である幼少の「三法師(のちの織田秀信)」を擁立。信長直系の血脈を掲げることで勝家の主張を退け、会議の主導権を完全に掌握しました。
さらに領地再配分においても、秀吉は山崎の戦いの大義を盾に畿内の最重要地を次々と獲得し、自らの勢力圏を劇的に拡大させます。この清須会議でのパワーバランスの崩壊が、翌天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いへと直結し、柴田勝家を滅ぼした秀吉は、信長の後継者として天下統一への道を一気に駆け上がることになりました。