石川数正はなぜ出奔したのか?家康筆頭家老の裏切りと真相を徹底解明
石川数正はなぜ出奔したのか?家康筆頭家老の裏切りと真相を徹底解明について押さえておきたい ポイントを厳選して解説いたします。
秀吉に迎え入れられた石川数正でしたが、その栄華は長くは続きませんでした。数正のその後と死因、そして一族の家系図を辿ると、戦国乱世の残酷な帰結が浮かび上がります。
出奔後の数正は秀吉から手厚い待遇を受け、従五位下・伯耆守に叙任されます。しかし、豊臣政権内部での発言力は決して大きくありませんでした。秀吉にとって数正は「家康の内情を暴くための情報源」としては重宝したものの、一度主君を捨てた武将を最高首脳陣として心底信頼することはなかったためです。
数正の死因については諸説あり、正確な日付も含めて記録が割れています。文禄元年(1592年)から文禄2年(1593年)頃、秀吉の文禄の役(朝鮮出兵)に従軍して肥前名護屋城へ向かう途上、あるいは陣中にて病死したとする説が有力です。激動の人生の幕切れは、華々しい戦死ではなく、遠い九州の地での静かな病没でした。
残された子孫と家系図の歩みもまた過酷でした。長男の石川康長は家督を継いで松本城主となりますが、慶長18年(1613年)、幕府を揺るがした「大久保長安事件」に連座。領地隠匿などの罪を問われて改易となり、豊後国佐伯へ配流されました。また、次男の石川康勝は大坂の陣で豊臣方に加勢し、真田信繁(幸村)隊の近くで奮戦するも討死。かつて家康を支えた名門・石川数正の直系大名家は、ここに完全に潰えることとなったのです。