百人一首7番・阿倍仲麻呂「天の原」の意味と生涯帰れなかった悲劇の真相

百人一首7番・阿倍仲麻呂「天の原」の意味と生涯帰れなかった悲劇の真相を徹底追究! 知っておきたい 情報と解説を分かりやすく展開します。

唐の宮廷で確固たる地位を築いた仲麻呂でしたが、故郷・日本への思いが消えることはありませんでした。753年、藤原清河率いる遣唐使船が長安を訪れた際、仲麻呂は実に36年ぶりの帰国を決意します。玄宗皇帝は有能な側近の帰国を惜しみつつも、長年の忠誠を慮って帰国を許可しました。

揚州の港で開かれた送別の宴において、日本への帰還に胸を躍らせた仲麻呂が詠んだのが、前述の「天の原ふりさけ見れば…」でした。この航海には、日本への渡航を幾度も試みていた高僧・鑑真も別船で同行していました。

しかし、当時の東シナ海横断は命がけの航海でした。出航直後、一行は猛烈な暴風雨に見舞われます。鑑真や吉備真備が乗る船は苦難の末に日本へ到達したものの、仲麻呂と大使・藤原清河が乗った第一船は遭難し、現在のベトナム中部の安南(日南)へ漂着してしまいます。

現地住民の襲撃を受けて多数の乗組員が命を落とす中、仲麻呂らは奇跡的に生き残り、約2年の歳月をかけて長安へと帰還しました。玄宗皇帝は仲麻呂の生還を喜び迎え入れましたが、すでに仲麻呂の気力と体力、そして安全な渡航手段は失われつつありました。

追い討ちをかけるように、755年には唐全土を揺るがす大反乱「安史の乱」が勃発します。長安は反乱軍によって占領され、都は大混乱に陥りました。仲麻呂は皇帝の避難に同行し、反乱鎮圧後も唐の官僚として治安回復や行政に奔走せざるを得なくなります。政情不安によって遣唐使船の往来も途絶え、ついに日本へ帰る機会は永遠に失われました。宝亀元年(770年)、仲麻呂は73歳で長安の地で静かに息を引き取りました。

山崎 陸

山崎 陸

ガジェット&アプライアンスライター

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